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私は何を見て、何を感じ、何を思うのか ―日陰からお伝えします

「捨てること」への恐怖心

最近『断捨離』とか『ミニマリスト』という語を世間でよく聞くようになった。本当に必要最小限のモノだけを残して他全てを手放すということであるらしい。モノからの解放は物質的豊かさの隆盛を味わっているが、精神的豊かさをさも忘れがちな我々現代人への一種の反抗心の現れなのではないだろうか。しかしこのモノを捨てる行為、私の中ではとてつもなく心理的圧迫感を感じるのである。

 

別に私はゴミ屋敷に住んでるわけでもない。部屋の掃除が嫌いでもない。むしろ定期的にしないと落ち着かないくらいだ。今回取り上げたいのはチリ紙や包装などの一般廃棄物の話ではない。では何かというと、思いがこもっているモノである。

 

私は旅行が好きで色々な場所へ向かう。旅行先では親しい人へのお土産はもちろん、自分用のお土産をいつも買っている。自分用までなぜ買うのかというと、旅行の思い出をそのモノに込めることができるからだ。もちろん写真や自分の心の中でも思い出はできる。しかしそれはいつか消えるのではないか、いつかは行ったというただの事実が頭の片隅にしか残らないのではないか。この不安がいつも私に付きまとう。モノがあることで何らかの形で記憶として保存されると信じている。これは土産物に限ったことではない。何気ない友人たちとの交流や録画しているテレビ番組ですらそうである。

 

モノとして失われることで目に見える形で二度と蘇らないことへの心の喪失感が怖くて怖くて仕方がない。どんなに悔やんでもやり直しやプレイバックができないからだ。人と縁を切るというのも二度とその人の行く末を知る由がなくなる恐怖からいまだにできずにいる。諦めが悪いとでも言えるのかもしれないが、中々私の厄介な人格ではないだろうか。

 

それでは次の記事で。